剣か氣か
主人公がもともと属するのは崋山派ですが、この掌門人および崋山派の剣の哲理は、まずは氣を極めるというものです、ですから氣がきわまれば実は剣は最終的には不要になります。崋山派は剣を極める道(つまり剣にとにかく強くなる)は、道から踏み外しやすい左道であるとして、徹底的に非難します。
弟子の一人は剣も氣も同様に重要だという意見を述べますが・・・・。
さて、剣が先か、氣が先か。
これは、別に剣術だけに限ったものではないでしょう。
しかし、確かに方法論を間違えると、同じような究極を目指していたとしても、そのプロセスで失うもの、または犠牲は雲泥の違いになるのかもしれません。
仙功でいえば、おそらく氣にはじまり炁に終わる、でしょうが、しかし、武術、剣、武器も自分の身体の延長として意図する場合には大周天的な意味合いの功ということになります。なぜ武器かというと、昔は鋳る人の魂が宿り、それを使う人の魂が宿る依代(よりしろ)的なものになりやすいという側面と、乱世で生きるためには必要があったという面もありましょう。
武術は世が安定すると式次第が増え、理屈が増え、乱世ではシンプルになるといわれているます。当然でしょう?速戦力のあるシンプルな武術でなかれば乱世では生きていけませんから。
なお、剣術、武術なりを極めれば、剣や武器は不要となります。あくまでもプロセスの一つのツールでしかないということでしょう。その意味では、氣からはじめる方法は実に難しいということになります、なぜかというと最初から本質を目指すやり方でしょうから。