Cedar Tree on Yakushima Island屋久島
すべてにドラマがあります、部外者には見えませんけど。
○屋久島の縄文杉
屋久島の縄文杉は7600歳にも及ぶ「伝説の縄文杉」が存在するのみならず、樹齢数千年の杉をはじめとする原生林が静かに息づく島である。
村民は自然と共存しながら生きてきた、そして自分たちの年齢よりもはるかにながく生きている存在に対し敬意をはらってきた。
時は第二次世界大戦そして戦後。
物資不足、そして収入源として、国有林であった屋久島の木々を林野庁は伐採せよ、との指示を出した。心の中で葛藤抱きながらつぎつぎと数千歳の杉を切り倒していく村民たち。彼らは林野庁に雇われた人が殆ど。そして少なからずの人は島を去って、本土へ職を求めた。
東京で学生をしていた若者Aは、故郷の森が奪われていくことを口をくわえて見ているわけにはいかなかった。そこで奮起して職はないが島へ戻り、森を守る運動を孤軍奮闘ではじめることにした。
それに賛同する若者は最初は一人、同じ東京で学生をする男であった。
そして、島の郷土研究家であるB氏であった。B氏は「杉は、森は人間とともにいきて来た。運命共同体である。」と述べる。
Bは伝説といわれてきた縄文杉を、ようやく見つけることが出来た、それは実に76000歳にも及ぶ杉であった。
Aは島へ戻って、杉を切り続ける村民たちに、「自分たちの育った宝ものを次の世代に引き継ぐべきではないか。我々の祖先は自然、木々を愛してきたらこそ、現在までこれの大杉が残っているのではないか。一時的な経済的な理由のために切ってしまっては、原生林が回復するためには数百年以上もの時間がかかるではないか。」と。
しかし殆どの村民たちは、「杉をみているだけでは生活出来ない。」
島で公開討論会が開催され、侃々諤々の議論が行われたが、結局ものわかられにおわってしまった。
大杉はどんどん切り続けられた。
時は流れて昭和52年、戦後最大の災害と呼ばれる台風による屋久島泥流事件が起こった。これは台風による大量の雨が、本来森の土壌で吸収されるものが、まるはだかになった大地になってしまったために、大洪水を引き起こしたのであった。
村民の多くの家は洪水に流され崩壊した。
これを期に村民の間にようやくAらが主張してきたことを見直すべきではないかとの意識があがってきた。
しかし林野庁の指示はかわらない。もう一つの手つかずの原生林を伐採せよとの行政命令が下った。
Aは村民たちの指示をうけつつ、林野庁に働きかけることにした。「この原生林は、数千年もの時間をかけて生まれたみんなの宝です。これを破壊するということだけはやめて頂きたい。また原生林には伝説といわれる縄文杉もいくつか生えています。」
しかし林野庁の役人Cの反応は冷たいものであった。「国の命令ですから。」
AはCに向かってこういうしかなかった、「あなたは実際に原生林を見たことがあるのですか、その中を歩いたことがあるのですか」。
Cはその後、Aの言葉が脳裏に残り、ある時、その原生林に足を踏み入れることにした。
そこはまさに太古からの緑深い稀有の原生林であったと感じたCは、どうにかならないかと考えるようになった。彼は国の命令の執行と、自分の体験との板挟みになった。
すると、ある時、この原生林を「学術保護林」として認定されれば森の木々を切らなくてすむのではないかと思いついた。しかし学術保護林に指定されるためには、農水大臣の承認が必要であった。
Aらは広く署名活動を行い、国会、政治家に陳情を行ったが、反応はつめたいものであった。
Aは最後の切り札を使うことになった、「縄文杉論」である、「もし原生林を切るというのであれば、そこに住む縄文杉も死ぬことを意味する、なぜなら原生林は全体で原生林だからである。それ故に、原生林を切ると国が判断するのであれば、縄文杉を切る。」
この縄文杉論が、マスコミの大きな関心を集めることになった。
そして、農水大臣が屋久島を視察する段取りが進み、農水大臣に原生林の重要性を説いたのはCであった。原生林にいたく感動した農水大臣は、屋久島の森を「学術保護林」として国有林の伐採を禁止した。
そして時はながれ、屋久島の原生林はUnescoの世界遺産に指定された。
杉をあの時切り続けた村民たちは、今になって当時を振り返るAに対して、「いや、我々は君たちよりもよく森の重要性をしっていたんだ…・」。
(おわり)