ビッパサーナ、ヴィパッサナー瞑想 Vipassana
もともとは仏陀の瞑想法ということだが、瞑想という枠さえもとっぱらってしまうものだ。
10日間ぐらいのコースであればゴエンカ師のものがあるし、それ以外にもビッパサーナという名前でいろいろなものがあるようだ。
私はゴエンカ師のコースに参加したことがある。無言の行、ひたすら座る、人と接触しない、食は最低限のものだ。まさに自分と向き合うしかない、しかも自分の無意識ともご対面だ、これは結構辛い。
最初はアーナパーナという、自分の鼻先で呼吸を観察するというものを繰り返していく、もちろん、初めての人は雑念だらけだし、自分のいろいろな感情やなんかもでてくるだろう。ここは、ちょっと辛いところだ。3日目から5日目ぐらいにかけて、自己否定とか逃亡願望がでてくる、「私はなにやってんでしょ?こんなところで」という疑問が沸くのだ。
しかしこれを越えていくと急に体も軽くなって、長く座っていても足さえもしびれなくなってくるし、座るのが苦ではあまりなくなってくる。いよいよ、ビッパサーナの瞑想にはいってくるわけだ。
ビッパサーナでは兎に角、自分の体の一部分一部分を細かく観察していくのだ、そこに何か痛みや不協和音があれば、それを見つめていくのだ、そしてそれは「移ろいゆくもの」(アニッチャ)と観ずると、あら不思議、痛みも霧散していくのだ。
これを全身くまなくやったときに感じることができるのは、自分自身がバブル状のエネルギー体になってしまうのだ、空だ、無ではない。しかしこの空でさえも、無とアニッチャと観ずるのが、仏陀の完全なる否定の哲理だ。否定の果てにあるのは、肯定でも否定でもないゼロ。だから空でも無でもない何かだ。
陽極まって、陰に転じ、陰極まって、陽に転じる。
しかし、そうなったからといって「悟った」というわけでもなく、心身脱落したわけでもなく、免許皆伝したというわけでもない。
リフレッシュしてまたこの現実に戻ってくるだけだ。なぜなら、現実こそが貴重な時間を提供してくれるからだ、だから厭離穢土で逃げ出すという発想は本末転倒だ。仙人だって、逃げ出しているわけじゃない。
ビッパサーナは現実をより楽しく生きるための心身の洗濯の機会を提供してくれるのであって、悟りを目指しているというわけではないんじゃないかな、というのが私の経験談だ。それだけで十分だ。ただし、悟りの漢字が示す通り、心+吾、で自分らしくあるというのであれば、それならOKだ。
この手のものは、兎に角自分で体験するしかない。未知に飛び込むときは、考えるんじゃなくて、エイヤととりあえず飛び込んでしまうことだ、後から考えればいい、または飛び込みながら考えればいい。それじゃないと、いつまでたっても、何も経験できないだろう。なぜなら、飛び込めるタイミングはほんの一瞬しか巡ってこないからだ。
ゴエンカ師のビッパサーナは、京都の方は一時閉鎖されているそうだが、関東の方に新しく出来たそうなので、興味のある人は検索してみるとよかろう。