名古屋大学の伝統?頭脳流出と管理社会
で小林先生が文部科学大臣には「日本の教育は形式的すぎる」とコメントしたとか報道されてました。
形式的というのは、おそらく管理教育だということでもあるんでしょう。
まあ、今回のノーベル賞の受賞者の少なからずは、基礎は国内の大学で勉強したが、独創的な理論や実験という話になると、やはり資金的な観点や寛容性という観点から米国の大学に籍をおいて勉強せざるを得ないということなんでしょう。つまり頭脳の流出。
なぜかというと、産官学連携してしまうと、短期的な利益にならないような研究は企業論理によって認められず、
また学者の世界という極めて縁故主義・コネが根強い世界では、ユニークな人は村八分にあい、結局、海外に転向せざるを得ないというわけなんでしょう。ようは、力のある教授のラインに食い込まないと学者道もままならない、というわけです。
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初等教育は、すべての生徒が一定のレベルを実現するという意味では、ある程度の「形式」は必要なんでしょう。
しかし、その形式と管理とやらが日本社会全体に蔓延してしまっているのは、戦後の経済復興のために「規格に合う」人材を養成し、企業全体として発展の実現のために一丸となって取り組んできたからなんでしょう。そういう目標達成には、個性的な、独創的な人材は組織になじめない、ということになります。
これを変えるのは、容易ではないでしょうね。
ノーベル物理学賞、化学賞を受賞された先生方は報道で見る限り、自分の好きなことをやることを貫きとおしてきた人という感じですよね。こういうスタンスは、組織とぶつかる可能性大です。
しかし、寛容性のない日本の組織自体がすでに時代遅れで崩れかかっている、ということを今回の日本人によるノーベル賞受賞は暗に示しているのかもしれませんね。