「聖書時代史 旧約篇」、聖書考古学の周辺
アミハイ・マザール氏の上記の著作は、このエリアの考古学徒にとっては基本書にあたるものといえますが、聖書考古学というパースペクティブから読むとなかなか示唆的です。なお、586BCは第二次バビロン捕囚の年。
そもそも聖書の旧約に記述されている出来事と、考古学上の認識との折り合いをどうつけていくか、というところで、様々な見方が出てくるというわけです、というのも旧約をどう位置付けるかによって、当然、アプローチや手法も変わってくるわけですから。また発掘の手法についても、エリアという広がりを主眼とするか、それともテル(丘)の年代別の地層に主眼を置く(層位学的発掘、ウィーラーケニヨン法)かという立ち位置によって異なるようですね。バランスよく組み合わせるというのが最近の傾向とか。
さて山我氏の表題の書籍では、「イスラエル民族が共通の祖先から出た血縁集団であるという観念と、彼らが出エジプトという共通の前史を持つという観念は、現在の研究ではいずれも歴史性を否定されている」としています。またアブラハムもウル出身ではなくて、アラム圏であったハランぐらいからではないかという見方。
また「同じイスラエル民族に属する諸部族でも、北部のガリラヤ集団と南部のネゲブの集団では、血統的にも歴史的にも起源を異にすると考えるのが自然である。したがって、アブラハムーイサクーヤコブ(イスラエル)-イスラエル12部族と続く図式は、後代に構成された架空のものであり、後のイスラエル民族の「イスラエルは一つ」という共属意識を系図の形で表現したものと考えられるべきである」。
さらに「数百万人規模の出エジプトという観念についても、歴史的には根拠のないものとして否定されている」と。とはいえ、これらの人物の歴史的な存在の可能性が否定されているわけではありません。
こういう見方と、聖書の記述との折り合いをどこに求めていくかというところがポイントとなってくるわけですが、そこが聖書考古学の面白さというところなんでしょう。この分野の著者の多くは、聖書の内容を「客観的」な形で提示したいという、なんだかんだといって聖書肯定的な出発点によっているという感じでしょう。さもなければ聖書考古学というもの自体がその意味合いを失ってしまうでしょうから。
信じるか信じないかは、あなた次第です。